昭和47年7月18日 朝の御理解★
御理解 第22節
「天地金乃神と言えば天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受けものが悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を充分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ」
力を受ける、ね、お徳を受けると言う、そういう信心を、おー、願わせてもらう。その、んー、その為には今日のここの所を頂かせてもらったら、一番おかげを受けられるように思います。★今朝から御神前で、えー、あー、あたくしはあの、東京相撲と言うのを何回も見た事は無いですけど、まあ、1、2回見せて頂いたんですが、あれー、でもあんなにたくさんはおらんでしょうけれども、やっぱりそのー、相撲、まあ、なんですよね。
(もうすり鉢が当たりそうな ? )ほんともう観衆がどれだけあるか分からない中に土俵がある。土俵の中であの、一生懸命、そのー、お相撲さん達が相撲を取っておる。そこにスポットがこう当てられておる、またその、(土壌?)の所に。ですからもうはっきりそのお相撲さんのその、おー、相撲取っておるのがわ分かると言うような、あのー、状態の御心眼を頂かしてもらった。
御理解を頂かしてもらって、結局そのー、今日の御理解ですね、いわゆる力を受ける力持ちと言う、信心させて頂く者はね、おかげを受けると言うよりも力を受ける、お徳を受けると言う事が信心の根ざしなんですよ。神様の願いもそうなんです、神様の願いもそれなんです、ね。ですから例えば、そのー、もうほんとにたくさんな人間氏子がおります中に、例えば言うなら合楽にたくさん信者がおると言うてもです、それはちょうど、あの、お相撲さんの数ぐらいのこっちゃないでしょうかね。
いわゆるそのたくさんな人、そりゃあもうまあ( ? )も誰がどこにおるやら分からんぐらいにたくさんにおる。けれども土俵上で相撲をとっておると言うのが、まあ言うなら金光様の御信心者だ、と言う事じゃないでしょうか。まあ言うなら合楽の皆さんと言うても良いかもしれません、と言うくらいに信心を頂いておるという者は少ないと言う事であろう。言うならそこへスポットがこう当ててありますから、もうその皆が( ? )っとこう見ておるわけです。
そこで例えば力の限り技の限りを尽くして、あそこでやる、死闘すると申しますかね、一生懸命取り組みがなされるわけです。ですから、例え勝っても負けてもそのやはり勝ちぐりが良くなからねばいかん、要するに負けてもやはり負けぐりがようなからにゃあ、その観衆が喜ばない、ワーッと言わんわけです、ね。同時にそのお相撲さん、は力持ちとこう申しますから、結局力を受けよ、いや、力を受けた人達があそこで土俵上でそこん所にこうやってスポットを当ててある所が素晴らしいですね。
だからあたくしどもの上にはいつも金光様の御信心さして頂いたらですね、そういう一つの光、灯かりがこう当てられておるわけです。まあ言うならこうやってあたくしが紋付き着せて頂いておるが、紋付きの裏には八波の御紋章の紋が入っとるようなもんです、ね。「あー、妙なかっこしとると思ったら、あれは金光様の信者ばいの」ちゅう事がすぐ分かるようにですね、金光様の八波の御紋章をいつも借ろうておるという自覚がいると思うですね、信心さして頂く者は。
だからもう普通の者と信心の無い者ともう根底的にですね、違わなければいけない事が分かりますね。もう観衆のたくさんの者のですよ、眠っとろうがです、ね、あぐらをかいとろうがです、だーれも気も付きません。けれどもほんならその、真ん中に出ておるその、お相撲さんの姿というものは、いつも光がそこに当てられておりますから一目瞭然に分かるわけです、(要するに?)悪い事は出来ません、ね。
そうして力をきとうていく、力を受けていくとこういう、そういうお知らせを頂いたらこの22節です、今日は、ね。ですからね、これは本気で力を受けて行こう、本気で力持ちになろう、ほんとに徳を受けようと言う、まあ、人達の姿。まあ金光様の信者の中にもほんなら信者の中のまた信者と言われるような、ね、徳を受けて、力を受けて、えー、本当の意味においてのおかげ、神様が喜んで下さるほどしのおかげを頂かせて頂こうと願う者の、まあ数かも知れませんよね。(ごくまれに?)
それにはね、例えば充分の徳を受けようと思えばままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞと、ここには徳とおかげを一緒に説いておられますね。充分に徳を受けられる、自分の力をいよいよ鍛えて受けていくという事にはままよという心になりなさい、ままよという事はもう右でも左になってももうあなた任せという事。いわゆる死んでもままよという事、そういう心になればおかげもまた受けられるとこうある、ね。
昨日の御理解は、んー、信心する者、これからのどのような大きな事が起こってきても驚いてはならんぞと言う御理解でしたね。力を受けとかんと、やっぱよろよろしますわけです。昨日はもうほんとにあたくしがここでお取次ぎさせて頂いたもういくつも幾人の方がです、うーん、やっぱこう言うようなまあ言うならびっくりするような、驚かなければおられんような問題でお願いに見えた方が何人もありました。
また朝の御祈念に参って来ておられる方達でも、何人かありました。そりゃもう電話で、夕べも遅う電話かかってきました。ほんで、「今朝の御理解はどげんじゃったか」とこれだけで片がつくわけです。さあどんな事が起こって来たって驚かんで済む信心、「今朝の御理解ば思い出しなさい」それでまあ電話の答えは済むと言うような事でした。夕べは合楽会でございましたから、えー、ちょうど12時ぐらいまでおかげ頂いたでしょう。
皆さん帰られますから、帰った、皆さんが帰られた後に、いー、共励殿でえらいざわざわしよりますから、どうしたっちゅうたら、栄四郎がもう、うーん唸って苦しみ出す、ほーらもうちょいと熱も出てから、あー、してから家内は水、いやあのー、氷枕を作ったり氷で冷やしてやったり、まあしよる所でございました。もうほんとに休ませて、えー、頂くまで、あの、普通で言うならば驚かなければおれないような事柄が続きましたですね、まあ教会全体の事についてもやっぱそうでした。
今日私共、うー、秋永先生それから、あー、(正行?)先生それから高橋さんとそれにあたくしもぜひ行こうと言うから、行かなければならんだろうと思って佐世保へ参ります。それも例えば普通で言うならば、あー、まあ驚かなければならないような問題でありますけれどもね。けれどもひとっつも驚かんで済むと言う事です、ね。昨日その事で、えー、会議しておりましたから、あたくしもちょっと出てくれと言う事でちょっと出ました。
ああ、今朝の御理解(第一?)、今朝の御理解ばいと、その今朝の御理解で解決が着くようなおかげ、もちろん今日まだどういう事を見るか聞くかわかりませんけれどもです、もうそれはおかげにしかならない、おかげのための、言わばそれだと言う事であります。ね、いかに光が消えたようでありますけれども、それはちょうど蛍の光のような物で次の光がまた灯る為の物なんです、ね。
いわゆる呼吸して( ? )、してるんです。★そしたら神様からね、古風な昔の、むかーしの麻蚊帳のね、緑色の淵の赤の付いた広ーい蚊帳を頂きました。これはどういう事かと言うとね、「天地金乃神と言えば天地一目に見ておるぞと、おかげは平等に、神は平等におかげを授けるが受け物が悪ければおかげが漏るぞ」と仰る、ね。あたくしどもは天地金乃神様のです、言うならばその蚊帳の中におるのです。
だからそこで煩わしい事が起こってくるはずが無い。煩わしいと思うのは自分の迷いの心が煩わしいと思うたり、はあ怖い事だと思うたりそりゃ困った事だに見えるだけの事。神様の蚊帳の中で起きておる事なんだと、お守りを受けておると、ただ自分で、ね、それこそカモフラーム(カモフラージュ?)に関わるように錯覚してイライラモヤモヤしておるだけの事なんです。
という事をです、あたくしは、えー、昨日、おー、今日、まあ感じさせて頂いておるわけですけれどもね、お互い一つ、んー、神の徳を充分に受けようと思えばと、だからそれは思うて頂かにゃいけません。充分な徳を受けようと、ね、お徳を受けると言う事なのですから信心とは。また力を受けると言う事なんですから、ね。
そう言う時に言うならあがらんで済む、バタバタせんで済む、どっこいと言わば受けれる信心を常日頃頂いとかなければいけません、ね。そう言う心の状態がです、神様が下さっておる、平等に下さっておるおかげを、言うならあたくしだけは頂き続ける事がでけると、これはあたくしだけだと、そう言う心の状態で受けていけば誰でも受けられると言う事なんです。
よろよろしてたらそれだけ引かれる、ね、困ったと言えば結局困った事になる、ね。ですからやはり度胸がいります、最後にはもう死んでもままよと、ままよとは死んでもままよの事ぞと仰るように、やっぱぎりぎりの腹を込めなければいかんです。結論としてはです、それがどういう事に結果がなろうがです、もうそれはあなたに任せてあると言うのです、ね。そこに充分の徳を受ける事がでけると言う事であります、ね。
ただ、お話しを頂いておりますと大変難しい事のようですけれども、日々うまず弛まず、信心の稽古をさして頂きよりますと段々確信もでけてきよる。神様の一分一厘間違いの無い働きのほども感じさして頂く事になり、ね、ですからそこの所が楽しゅう力を受けていく、楽しゅう徳を受けていく事がでけるようになります、ね。全然、えー、充分な徳を受けようと思えばと仰る、徳を受けようただおかげを受けたい、おかげを受けたいと言うておる者にはだから縁の遠いお話ですね、今日の御理解は、ね。
だからほんとに御神意に沿わせて頂く、いわゆる充分の徳を受け、力を受けさして頂いてと言う事、ね、そう言う例えば力持ちと言うか力士を志願しておるわけですから、そりゃ負けるかもしれません。けれどもね、負けっぷりの良い負け方、ね、負けたっちゃやっぱ拍手が起こるようなお相撲さんがおりましょうが。勝ったっちゃきた-ない勝ち方しかでけん人がおりましょうが。
ね、あたくしどもはそう言う一つの力持ちにならせて頂こうとする自覚、ね、それはまあ、金光大神のいわゆる信者であると言う自覚。いつも大観衆がいつもそこに注目をしておる、いやそれこそ注目をしなければならないように、そこに光を当ててある、スポットが当ててある。その中であたくしどもは色々な動きと言うものが、あたくしどもの信心者の動きがそこにある、一目瞭然に信心の無い者から見えておる、ね。
そこで言うなら見事な、例えば、あー、その技と言うか力が発揮でけるようなおかげを頂いたらね、それこそ皆も「素晴らしい」と感嘆の声をあげるほどしであろうとこう思う、ね。そう言うおかげを頂きたいですね皆さん。そう言うおかげをそれこそ大観衆、たくさんの人の上にも一様におかげを下さってあるのです。けれどもおかげの受け物が悪いから受け漏らすのです、ただ良い信心をするなどといった信心がでけておると言うだけではいけません、ね。
ほんとにこれによって力を受けよう、これによって徳を受けようと言ったようだけでいつも勝つようなもんじゃありません、ね。昨日あたくしがお取次さして頂いたいくつもの、その、おー、まあ実例を申し上げるともっと分かり良いと思いますけれども、まあ結局言うなら電話で、「先生こうです」と言う時にです、「今朝の御理解どうじゃったの」っち言やあもうそれで片付くような感じ、あたくし自身が驚いてないから、その人が驚いとってもその人はおかげ頂くとあたくしは確信しております。
「はあ、それはどうぞその困った事なったの」とあたしが思とったら危ない、ね。それからあたくし2時ごろまた( ? )えー、共励殿覗かして頂きましたら、もう皆すやすや休んでおりましたから、おかげで熱が下っとっとじゃありませんでしょうか、栄四郎の場合はもうこれが一番最後でした。昨日一日そう言う、言うならばいかに神様がね、あの御理解と言うのは「今日もこれを持って信心の稽古をしろよ」と仰っておられると言う事が分かりますね。
ですから日々の御理解はですね、「今日はこれで行こう」と言う、あたくしはこの信心姿勢を作らなければいけない、ね、そこからすぐ一目瞭然に答えが出てくるんです、ね。今日、お月次祭ですからもちろん、んー、日帰りで帰って来なければなりません、それで今日はもう朝の御祈念、んー、からもうぶっ続け、えー、佐世保にやらせて頂く事になっております。それで少し早いですけれどもこれで御無礼いたします。どうぞ皆さんのお祈り添えをお願いします。教会全体の言うなら、あのー、事なんです、ここの御造営の事ですから。
けれどもあたくしは蚊帳の中で起きておる事だから、煩わしい事にするもせんもこちらの心一つだとこう思うんです。「神様のおかげだの」っち、と言える事だと思うんです。まあ、その事については色々お知らせも頂きましたから、んー、けれども、んー、これはあたくしが心の中で頂いていく事ですから、ね。けれども尚且つ皆さんのお祈り添えもやっぱいるわけでございますから、よろしゅうお願いいたします。
どうぞ、今日あたくしが御心眼に頂きますその、砂の場と言うようなです、あの皆さんもやはりそう言うような御心眼を頂いたと思うて、一つ思うてみて下さい、ね、たくさんの観衆がこうすり鉢が当たるように眺めておる、その中にあるのがあたくし達だ、「こう言う力を受けたい」と志願する者達の姿だと、ね。しっかりそこに、そこ、そこだけにスポットが当ててある、と言うのですから、ね、見苦しい負け方はでけません、ね。
あたくしは今日はそういう意味でですね、まあ一つ、何と言うでしょうかね、今日はどの手で投げてやろうかと言う感じが、そういう勇んだ気持ちがあります。どうぞ。
明渡徳子 2005年7月28日